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マグナム設立 - 1947年 -

マグナムの歴史、歴史の中のマグナム


キャパは言いました 「シュルレアリストの写真家ではなく、報道写真家になるんだ。マンネリズムに陥りたくなければ、シュルレアリズムは心の中にしまって、ためらわず前へ進め!」 彼のこのアドバイスが私のビジョンを広げたのです - アンリ・カルティエ=ブレッソン 

 

マグナム設立 - 1947年 -


マグナム・フォトの設立は、第二次世界大戦終結の2年後のこと。世界中で最も有名な写真家集団マグナムは、4人の写真家、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド“シム”シーモアによって発足した。彼らは、先の大戦に非常に心を痛めていたけれども、なんとか世界が戦争を切り抜けた安堵感と、戦禍のあとに残ったものを理解したいという好奇心に突き動かされていた。「人間、写真家としての独立精神」とマグナムの伝統となった「報道と芸術の個性的融合」を反映させながら、1947年にマグナム・フォトは発足する。重要だったのは、何が見えたのかということだけでなく、それをどのように見るのかということだった。

「フランスに戻って私はすっかり途方に暮れていました」伝説の写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソンはル・モンド紙上でのエルベ・ギベールとのインタビューで語っている。
「フランス開放当時、世界はばらばらで、人々は新たな好奇心を持っていました。私は実家からの多少の仕送りを受け取っていたおかげで、銀行員にならずに済みました。以前の私は詩のための詩を探究する人のように、写真のための写真を求めていました。マグナムの誕生で、物語を語る必要性が生み出されたのです。キャパは私に言いました。『シュルレアリストの写真家ではなく、報道写真家になるんだ。マンネリズムに陥りたくなければ、シュルレアリズムは心の中にしまって、ためらわず前へ進め!』 彼のこのアドバイスが私のビジョンを広げたのです」。

 

 
ジョージ・ロジャーとロバート・キャパ

 

マグナムの活動的リーダー・キャパが抱いていた第2次大戦後の写真家の役割について、創設メンバーの一人であるイギリス人写真家ジョージ・ロジャーは次のように回想している。

「キャパは、静かに素早くシャッターを切ることの出来る小型カメラの特性を見出し、また同時に我々自身が精神的暴力に接した数年間の戦争の経験から得たものの本質にも気付いていました。キャパは、小型カメラと広大な知性の融合に我々の未来を見ていたのでした」。

戦争とは、精神的にも肉体的にも過酷な現実である。ロンドン大空襲とベルゲン・ベルゼン収容所解放の写真で有名なロジャーは、ビルマで日本軍から逃れるために「竹林を300マイルも歩き、いくつもの山脈を越えねばならなかった」。また、「強制収容所に入った途端に死者を美しい構図の写真におさめようとしている自分に気付いて、戦争写真家を断念しようかと思った」と彼は語っている。 カルティエ=ブレッソンは戦時中の大半をドイツ軍捕虜として過ごし、3度試みて脱走に成功した後、フランスのレジスタンス運動へ身を投じた。 愛称「シム」で知られるポーランド生まれのデビッド・シーモアは、米国諜報機関での働きにより受勲しているものの、ナチの手によって両親を殺されている(父親はヘブライ・イディッシュ語書籍の出版業者)。 ハンガリー人のキャパ (この名前はスペイン内乱以来写真クレジットにも同じ名前が使われている) は、ノルマンディ上陸作戦を撮って彼の代表作となった。
 
しかし、4人の創設メンバーの中でキャパとシムは、戦後10年も経たないうちに、他の戦争の取材中に悲劇的な死を遂げることとなる。

 
パリ、ジョージ、ロジャー 、1944年

 

4人は、自分たちや後に続く優秀な写真家達が既存の雑誌ジャーナリズムの慣習にとらわれず活動できるようにとマグナム・フォトを設立した。パリとニューヨークに拠点を置き、後にロンドンと東京にオフィスを構えることとなる。

マグナムは従来の方法に囚われない二つの画期的なシステムを採用した。一つ目は、協同組合方式をとり、共同設立者であるマリア・アイスナーやリタ・ヴァンディヴァートを含めたスタッフは写真家を監督するのではなく、あくまでもサポート役に徹する。二つ目は、著作権は、作品を出版する雑誌ではなく、写真家自身に帰属するものとした。
例えば、写真家はある国の飢餓を取材し、雑誌『ライフ』に写真を掲載する。その後エイジェンシーは、『パリ・マッチ』や『ピクチャー・ポトス』など他国の雑誌に写真を売り、依頼がなくても写真家自身が興味あるテーマを追って活動するための資金を獲得できる仕組みとなっている。

 現在と比べ、1940年代後半は写真家にとっての好条件が揃っていた。というのも、世界の多くの場所で人々は写真家というものを見たことがなかった。ロジャーが指摘したように、「行きたい所はほとんどどこへでも行けた」のだった。「当時は何でも写真に撮ることができたし、雑誌社もそれを強く求めていたからだ。間違いは、それが続くと考えた」ことだった。しかし、50年が経った今でも、ロジャーは1940年代後半に自ら撮った「汚れなき世界から逃れるため」の訪れたアフリカ一ヶ月旅行の写真の売上を得ている。

 

 
パリ、シムとキャパとビショフ、1947年

マグナムが最初に着手したのは、世界を大雑把な取材エリアに分けることだった。シムはヨーロッパを、カルティエ=ブレッソンはインドと極東、ロジャーはアフリカ、そしてキャパは全体とマグナム設立に携わったもののすぐに脱退したビル・ヴァンディヴァートの代わりに米国を担当。そうした中で、彼等の初期スクープのいくつかは生まれたのだった。例えば、ロバート・キャパの手によるソ連の鉄のカーテン裏側の史上初の無検閲写真。キャパの写真は、ライターのジョン・スタインベックの文章と共にレディーズ・ホーム・ジャーナル誌に初掲載された (レディーズ・ホーム・ジャーナル誌の写真編集者で後のマグナム編集主幹となったジョン・モリスによれば、スタインベックへの報酬が3千ドルだったのに対し、キャパは2万ドルであった)。他には、ガンジーが暗殺された頃のインドを取材したカルティエ=ブレッソンの記念碑的作品が挙げられる。

マグナムに所属する写真家にとって重要だったのは、多くの仕事を自分自身のストーリーから選び、長期テーマの作品に時間をさけるようにする柔軟性を手にすることである。彼らの誰一人として、雑誌社やその編集スタッフの指図通りに動きたくはなかったのだ。4人の写真家は、イメージの中に出来事の形式的記録を越える視点を持つべきであると信じていた。

「我々はしばしば"ニュース"と呼ばれる出来事を撮影する」- カルティエ=ブレッソンは、1957年にポピュラー・フォトグラフィー誌のバイロン・ドーベル氏に語っている - 「しかし、多くの人はニュースを段階的に詳細に、まるで経理担当者のように述べているだけである。これでは、記者やカメラマンは、出来事についてありきたりの事柄しか伝えることができない。それはまるでどこかの歴史家によるワーテルローの戦いについての平凡な詳述、『大砲が沢山ありました、多くの負傷者が出ました、等々』、を読んでいるかのようだ。それらは箇条書きなのだ。他方で、スタンダールの「パルマの僧院」を読めば、戦いの中のわずかなしかし重要なディテールを生きることができる。人生は、アップルパイのように切り分けられる類の物語ではない。物語に接近するための標準的な方法はない。そして、我々は情景や真実を喚起しなければならない。写真、それは生のリアリティーの詩なのだ」。

 
 
中国、アンリ・カルティエ=ブレッソン、1948年

 
「マグナムの歴史、歴史の中のマグナム」 
マグナムとは
マグナム設立 - 1947年 -
創設期のマグナム - 1947年以降 -
50年代~現在