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創設期のマグナム - 1947年以降 -

ディビッド "シム" シーモアとジョージ・ロジャー

カルティエ=ブレッソンがアーティストとして最も共感を寄せていた"シム"ことディビッド・シーモアは、"優しいスタイル"の持ち主であった。戦時中のシムは写真を断念しかけていたが、戦後すぐに、戦争が子供達に残した爪痕をテーマにユネスコの2年プロジェクトを手掛けた。負傷した子供達や戦争孤児達を多く写真に収めている。彼の写真の中で最も痛ましいのは、自分の家の絵を書くよう頼まれた少女が、落書きのように乱れた絵の前に黙って立ち尽くす姿である。


ワインと美食をこよなく愛した穏やかな教養人、そしてサタデー・レビュー 誌のホレース・サットン氏が述べたように、ロボットのように見栄張る人を嫌悪していたシム。そんな彼の写真は、静かな感性、被写体の苦しみ、控えめな博愛精神を表現している。それはまるで無意味な世界に秩序を取り戻そうと企てているかのようだ。「シムがカメラを手にするのは、医者が鞄から聴診器を取り出して、自分の心臓の動きを見立てようとするのに似ていた」 とカルティエ=ブレッソンは書いている。「もともと心臓の弱い男だったんだな」。

一方、ジョージ・ロジャーは下積み時代に撮影した、孤立した環境で生活しながらも共同体のしきたりを継承、誇りを持って生きているアフリカの人々についての写真と文章で名声を手にした。メディアが高度に発達した現代社会では珍しくなったが、ロジャーの写真の中にはカメラ向けの演技というものがほとんど感じられないのだ。自動車とジープで移動した2年間で29,000 マイルの旅は、第二次大戦中に彼が目撃した恐怖に対する反動として、そして生命を大切にする人々との出会いのためのものだった。ストレートで控えめな彼の写真は、繊細で丁寧な表現として群を抜いていた。


設立から10年も経たないうちに訪れた写真家達の死 - 二人の創設者キャパとシム、さらに才能溢れるワーナー・ビショフ - は、マグナムを混乱へと陥れた。当時のマグナムの存続は、残されたメンバーの、仲間達の死を無駄にしたくないという願いに拠るところが大きかった。


 
1952年、パリ、 デビッド・シーモアとロバートキャパ

 
ワーナー・ビショフとエルンスト・ハース


スイス生まれのワーナー・ビショフとオーストリア人写真家エルンスト・ハースは設立後に加わった初の新メンバーだった。 二人とも記者の役割について大きな悩みを抱えていた。ビショフは、自分の身近で起こっている悲劇―取材したインドの飢餓など―に対する、雑誌・メディアの飽きっぽい対応に不満を漏らしていた。「私は大手雑誌に対しては無力です。私はアーティストであり、これからもアーティストであり続けます」と彼は記している。


ハースはヨーロッパの戦後の荒廃についての短期取材を行った後、色と動きのある写真製作に取り掛かった。彼が得意としたのは、本来なら陳腐なディテールにすぎないお店のウィンドーや歩道、がらくた、影などの明るく抽象的で半透明な色の表現であった。1960年に彼は書いた「新しいものを撮ることに興味はありません。私が関心を持っているのは、ものごとを新しい視点から捉えることです。そういう意味で画家と同じような課題を持つ写真家だと言えるかもしれません。私の願望はカメラの限界を見極ること、そしてそれを克服していくことです」

 

 
イタリア、カプリ島、エルンスト・ハースとインゲ・モラス、1949年


「マグナムの歴史、歴史の中のマグナム」 
マグナムとは
マグナム設立 - 1947年 -
創設期のマグナム - 1947年以降 -
50年代~現在